非言語による表現については、此処では述べない。
(1)
世界には非常に夥しい数の言語が有る。
それらの言語の中には、例えば、
ある特定の範囲の色を表す言葉がやけに多い言語が有ったり、或いはその逆の言語が有ったり、する。
人間は、自分が持つ言葉によって思考、表現をするから、
自分が持つ言葉に存在しない事柄については、
既存の言葉に含めて言い換えてしまうか、新しく言葉を作るか、他の言語から貰って来るか、などしない限り表現することは難しい。
また、文化の変化によって言葉の意味が変わったり、言葉自体が無くなってしまうことも有る。
一人の人間が扱う情報は、その人が持つ言葉によって左右される
(単純に、多い、少ない、とか、良い、悪い、とかいう問題では無い)。
例えば、現在、人類が住むこの太陽系第3惑星を、現代の日本語では「地球」と命名し、 直感的に球体で有る事を意識しているが、 同じ星を英語では「Earth」と命名し、これは「この大地」という意味になる。 球だという事を言いたければ「globe」という別の言い方も有るが、 これは、総じて球体をしている物への呼び方であり、正式な惑星の名前では無い。 どちらが良いとか悪いとかでは無く、文化や思考により、 この様な言葉の微妙なニュアンスの違いは、無限に存在する。
例えば、 「ソーイングマシン」は「ミシン」で単に機械でしか無く、 「電気卓上計算機」は「電卓」、「携帯電話」は「携帯」で、 既に計算機や電話の意味が消えている。 良いとか悪いとかでは無く、文化や思考により、 この様な言葉の微妙なニュアンスの違いは、無限に存在する。
例えば、元々の「エキナカ」は、 大きな駅の改札より内側に有る洒落た店、的な意味合いだったのだが、 何時の間にか、改札口の内外に限らず、駅の構内に有る店全部を指す様になった。 言葉の意味が変化するのは構わないのだけれど、 元々の意味で話している場合に、変化した後の意味で解釈される(元々の意味を知らない)と、 時として、辻褄が合わなくなって、困ることがある。 言葉の時系列って、大切だと思う。
極端には 「これからはグローバルな社会になるのだから英語だ、日本語なんてどうでも良い」 などという意見が有るけれど、 日本語が貧弱になることは、同時に、日本語の持つ思考や感性、 そして背後に有る日本の文化が衰退することであり、 物凄く違和感を持っている。 全てを一つに合わせるのでは無く、日本語も、英語も、台湾語も、他の言語も、両方を理解する事で、 相互の思考の違いを理解した上での議論が出来ると思うのだけどな。 日本の文化なんてどうでも良い人達には、どうでも良いのかな。
(2)
極端な例。
「悪」という言葉は良くない言葉だから、と、無くそうとする。
結果、「悪」という言葉に伴う意味や概念が、失われる。
「悪」の概念が無い「善」は、どの様な世界なのだろう?
ディベートの否定?
私が大学では比較言語学専攻だったから、ということもあるのだけれど、 何故、教科「情報」の教諭の対象に、国語科を入れなかったのだろう、と、今でも思っている。