Tinkeringって、なんだ、私が、20世紀末、サイトの初期からずっと書いて来たことと、同じじゃん。
本来、Tinkeringは、既に日常の学びの多くの場面で行われている(べき)もので、
STEM教育の一要素としてのみ、存在するものでは無い。
逆に言えば、Tinkeringを取り入れたからと言って、
肝心の分野横断的なSTEMの要素が無ければ、それはSTEM教育で有り得ない。当り前。
※「A=表現力」も同じ。
元々は「色々と弄り回してみる」という意味の言葉。
日本語のニュアンスでは、試行錯誤。プログラミングで言えば、「論よりRUN」。
勿論、ただ闇雲、行き当たりばったりにRUNすれば良いというのでは無く、
一通りの論を聞いた上で、論理に従って、とりあえずプロトタイプを作ってみて、
それを叩き台にし、論理的に考察、調整し、完成させて行く。
その過程で生じる試行錯誤によって、その論理を確認し、
ただ単に正解だけを教えられるよりも自発的対話的な更に深い学びを得る事が出来る。
「たまたま出来た、達成感!」だけで終わりでは、何の意味も無いのよ。
以下の話は、20世紀末、このサイトの初期の頃からずっと彼方此方で書き続けているエピソードなのだけれど、 結局、25年間以上、何も変わっていないんだなぁ、という思いと共に、 何度目かのリニューアル再掲載。 昭和末期から平成にかけて、商業高校で通産二種、一種を生徒に教え、 一種を複数人合格させていた頃の体験。
プログラムの正解だけを教えられた生徒は、
エラーが出ると自分で解決が出来ない為にパニックになり、
最終的には「エラーが出るのは先生の教え方が悪いから!」と合唱する。
正解と共に、試行錯誤によってエラーの出方(何故間違いなのか)を理解している生徒は、
最初は時間が掛かるが、やがて、自発的、論理的に正解を考え、更に改良を加える様になり、
また、見通しの良いプログラムを書く様になる。
更に、生徒が判らない処や失敗した処を、生徒一人で考えるだけでは無く、
生徒同士で試行錯誤をお互いに補完合う様に教諭が上手く演出すると、
生徒の失敗のダメージが少なく、効率良く理解する事が出来る。
そして、コンピュータやそれを使う人間は常に正しい訳では無い、という事を理解し、
その対策も考える様になる。
但し、「正解を判り易く直ぐに教えてくれないのは先生の教え方が悪い!」と合唱される場合も有る。
以下の話も、20世紀末、このサイトの初期の頃からずっと彼方此方で書き続けているエピソードなのだけれど、 今でも時折同様の事を小耳に挟むので、結局、25年間以上、何も変わっていないんだなぁ、という思いと共に、 何度目かのリニューアル再掲載。
物凄く大昔のこと。
定期考査を控えた生徒から、例えば、HTMLの色指定
(#000000は黒、#FFFFFFは白、#FF0000は赤、では...、という様な事です)
について質問された際に、私が一通り説明した後で、
生徒から「答えは絶対にコレだね?」と言われる様な事が何度か有って、その意味が判らなかった。
後になって、
「こう問われたら答えはコレ、こう問われたら答えはコレで、他の答えは無いね?」
という意味だと判って、結構ショックを受けた。
そうか、16進数や光の三原色の説明はどうでも良くて(質問した生徒は知らなかった)、
0とFの幾つかのパターンとその答えを暗記すれば良いのか。
授業で教えられた、白、黒、赤、青、緑、の5通り程度の組み合わせを答案用紙に書き込めばそれでお終い。
考査が終れば忘れてしまう。
「では桃色は?」という自発的な発想は永遠に出て来ないのだろうな。
最大の問題は、それで構わないと考えている教諭が今も大勢存在している事だ。
一切の説明も無く問題集に答えを書き写させるだけで終了。
「考査直前対策プリント」と言う名の、考査問題と答。
教諭は言う。「このとおりに暗記しろ!そうすれば考査で良い成績が取れるぞ!」
生徒は思う。「これを暗記するだけなんて、なんて判り易いんだ」
考査が終了すれば、何の印象も無く忘却。
私は、良い成績を取る為だけの刹那的な「正解」ではなく、
その本質を捉え、知恵や見識に変える事が出来る為の「考え方」を教えたい。
それは、商業だけではなく、全ての科目で言える事だ。
その答が正しいか否かに因らず、極端には、ググれば自称「答」は検索出来る。
答たちは言う。「これが正解だ」「他はフェイクだ」「これを正解と思わないのは人として有り得ない」
それは本当か?根拠は??
これからの時代は、
誰かに都合の良い答を誘導され強制され洗脳される事無く、
各々の答の根拠を検証し、そこから更に自分が納得出来る、自分が責任を持てる、
自分の答を導き出せる様に試行錯誤する事が大切。