「学ぶ楽しさを知る」「○○の楽しさを知る」のは、とても大切な事ですが、 マスコミが好んで使う「○○の楽しさを学ぶ」という言い回しは、 それが小学生対象であっても、馬鹿にされている感が満載で、 教諭の論点すり替えにも使われており、物凄く不快感が有ります。
例えば、スキーの楽しさを知ることは大切です。
しかし、其処は入口であり、「楽しかったね~」で終わったら、決して上達はしません。
愉しみながら、スキーの技や危険回避を学ぶのです。
先ず、生徒が愉しまなきゃ。
ずっと以前から、国際交流でも、プログラミングにおいても、 「楽しかったね」だけで終わるのはダメ、と書き続けて来たけれど、 どうも、一部で誤解されている感がずっと有るので、敢て、書いておきます。
私は、「楽しかった」ことを否定するものでは、決して、ありません。
「楽しかった」ことは、達成感と同様に、動議付けとして、非常に重要な事です。
ただ、その楽しさは、どんな小さなことでも、学びへと繋がる楽しさでなければ、と考えているのです。
例えば、授業の動議付けとしての「楽しかった」はアリですが、
一年間それ「だけ」、は、高校の教科として、科目として、
学習指導要領として、どうなの?、ということです。
生徒が「楽しいだけの授業」ではなく「愉しみながら授業」。勿論「愉しくない授業」は駄目ですよ。
楽しかっただけ、の授業には、以下の3つのパターンが有ります。
(パターン1).
楽しかったけれど、教諭が意図した授業の目的が、生徒に全く伝わっていないもの。
よくある生徒の感想「楽しかったけれど、何なのか良く判らなかった」
もっとも多いパターン。新学習指導要領が指摘しているのも、この点です。
頑張れ!
(パターン2).
論点をすり替え、「楽しかった」を唯一の目的とする授業。
本来、教科、科目として学習指導要領に挙げられた学ぶべき内容は、一切無視。
教諭は「ど~せ・・・」と生徒に責任転嫁、或いは被害者面。
(パターン3).
そもそも何の意図も目的も無く、
芸人が一発芸を応酬し合うだけのTVのバラエティ番組と同程度に、
楽しかったけれど、リフレクションも無く、その場限り、授業後、何も残らないもの。
そんな授業有るの?と思うでしょ。有るの。