学校と情報教育に関する幾つかの想い Part.10
「結果」「成果」「評価」

登録日 06/05/11   更新日 06/05/11

目次

綺麗事なのだろうけれど、思うこと。


新しい事にチャレンジすると予算が貰えるのは良い事だけれど、 もし新しい事をしないと予算が貰えないのならば悲しい。 新しくない事(「基本」とも言う)が疎かになる事も有る。 それに、どれだけ取り組みを発表しても、 他の学校が それを改良しカスタマイズした取り組みをする為の予算が貰えないならば、 取り組みのシェアにならないから発展性が無く、 散発的で全体が盛り上がらない。

成果を出さないと予算が貰えないのは判るけれど、 もし結果を出さないと予算が貰えないならば悲しい。 「成果」って、正解だけで全てに順調に進む事ではなくて、 正解も何故間違えたのかも含めて全てが「成果」なので無いか知らん。 生徒に結果だけを求めるのならば、ファシリテータは必要ない。 パソコンの知識の豊富さは、その人がどれだけの種類のエラーを体験したか、に比例する (RynのIT技術習得の法則)。 間違いをしない人は居ないが、 間違えた時に自分で対処出来るか、 最善の策の後に次善の策が用意出来ているか、が大切。 たった一つの正解の知識だけで間違いを知らない人がイザという時に間違えた時が怖い。 取り組みについても同じ。 最も大切なのは単純な「成功」ではなく 「最終的に得たものの量と質」。それが「成果」ではないかと思う。

優秀な教員の評価、っていうのを、 何を基準に行うのか判らないけれど、 例えば、生徒の為は二の次で、 学校の存続の為や予算獲得の為、 或いは上司ウケの良さの為だったり、マスコミ受けの良さだったり、で、 それが「結果」「成果」「評価」っていうのも極く普通の話。 だけど、学校っていうのは、 色々な先生が色々な役割を持っていて、 優しい人も怖い人も、 表に立つ人も裏で支えている人も、ボケ役もツッコミ役も、ヒーロー役も嫌われ役も、 適材適所に、お互いに連携しあって、 現実の生徒一人一人の為に最善を尽くし、それで動いていくもので、 マスコミの見出しになる様な判り易い「結果」だけを追い求め、 例えば、(表向き)検定に何人合格させたとか、何処へ何人進学就職させたとか、を、 殊更に特定の誰かの手柄の様に取り沙汰して 「自慢」「評価」するものでもないと思うんですけどね。

教員採用試験では不合格(この事に関して異存はない。そう判断されたのだから)で、 免許を前提としない助手に採用しておきながら、 教員採用試験で合格した(能力を認められた?)教諭が 助手に授業を押し付け(=単位は無効です)、 助手に自分の無知や手抜きの結果を全て責任転嫁して卑劣な手段で中傷し、 実は全てがインチキ、デタラメ、不正、 さながら(時代劇の)越後屋のスタンドプレイと悪代官との馴れ合いの限りで安穏としているという、 これまで此処で書いて来た様な事々や、その数倍は有る此処にはとても書けない様な事々など、 脈々と続く長年の慣習が大嫌いです。 そんな私が、「教員の”評価”」なんて信用出来ると思います?  そして、何も言えない人間が、何も気付いていないと思っています?

( '06/05/11 記す)




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